2.28.2011

長嶋茂雄

プロ野球のオープン戦が各地で始まっている。
小学生の頃に、小倉球場に読売ジャイアンツが来るということで、
長嶋さんと王さんを生で見たくて、
とても楽しみに観戦に行ったことがあったが、
長嶋さんはたまたま試合に出なくてがっかりしたことを憶えている。

1998年のメンズクラブの長嶋さん特集の取材で、
キャンプ地宮崎で初めてお会いすることが出来た。
当時の長嶋さん付きの広報の小俣さんが、
妻の知り合いだったこともあり大変よくして頂いた。
私の姿を見かけると手招きして
普段は勝手に入る事を許されないようなベンチの中や、
必ず食べかけで置いていってしまうバナナが残った
バックネット裏の部屋などに呼んで頂いた。

ベンチに潜り込んで、長嶋監督の背後に回ってカメラを持っていると
私の顔をちらっと見て、どうぞ撮りなさいと言わんばかりに
素振りのポーズをしてくれた。
しかも力の入れ方を少しづつ変えながら、
変化を付けた写真を撮らせてくれた。
その後も監督を引退されるまで3回撮影させて頂いた。
カメラの前に立ってポートレートを撮るときも
たっぷりサービスしてくれるのはもちろんだが、
カメラを持って遠くから狙っていることに気がつくと、
ファインダー越しに「どうぞ撮りなさい 」
という言葉が聞こえてくるようだった。

当時、Jリーグなどでスナップする際に、
プロ選手達の多くがあまりカメラを好意的に思っていないような
気がしていたこともあって、
常にカメラにも気を配ってくれる日本で最も歴史のある
プロスポーツ界の代表である長嶋監督のことを大好きになった。

お金を払って見に来ているファンや、取材をするマスコミに、
大胆かつ華麗にそのプレーを披露していた3番を背負った長嶋選手の姿を
同じ時代にカメラマンとして撮影したかった。
勝負している時に見た目を気にするという事に関しては、
もちろん賛否両論はあると思う。
ただ、、、私は単純に、、
古い映像で、長嶋選手が送球したあとに派手に転んだり、
空振りをして足がもつれる映像をとても楽しく見る事ができるし、
難解なリップサービスも野球を見たいと思わせてくれる。
そんなプロ野球選手・監督は、とても素敵で素晴らしいと思う。

今年は、人気実力ともに素晴らしいルーキー達が
プロ野球に加わったようで今からとても楽しみにしている。
「セコムしてますか?」の一言で国民を楽しい気分にさせてくれるような
懐の大きなスポーツ選手が現れるのを待っている。
そして「我が球団は永久に不滅です」と胸を張って叫べるくらい、
選手それぞれの見せるスポーツを極めて欲しいと願っている。

プラウベルマキナ670 トライX

2.25.2011

Coleman(2006)

2006年度、Colemanのバックカタログで
モデルがらみのイメージ写真を撮らせて頂いた。
フィルム時代のカット数の多い仕事を思いおこすと、
最近のデジタルによるカメラとPCの連結撮影について
道具が変わっただけではなくて、すこし気になることがある。

コンピューターの移動や、電源の確保については
その時々の状況に応じて最適な方法を選択するしかないが、
逐一、撮影する写真を一枚一枚見てしまうことが、
ほんとうに「写真」にとっていいことなのかどうか?
考えてしまう。。

フィルム撮影の時は、
ポラロイドという手のひらに収まるような小さな写真を
スタッフそれぞれがじっくり確認して、
本番撮影に臨むというのが通常のやり方だった。
商業カメラマンとして、
考えられる準備をした上で
現場で出来る限りラフになぞってポラを撮るわけだが、
実は私の中ではあくまでそれはスタートであり、
そこから現場ならではの写真的なものをファインダーを覗きながら、
ラフ通りの合格点ではなく「K点越え」な写真をいつも狙っていた。

それはなぜかとういうと、
そもそもいい写真というのは、頭で考えてラフの上に
再現できるものではないと思っているので、
本番の状況の中でどうやったらよりいいものになるか
常にファインダーの中で、悶えていた。
デジタル時代になる前のADの方々の多くは、
カメラマンが見せたポラに、
必殺の一言デレクションを与えたうえで、
シャッターを押す私の横で被写体を見ながら、
ラフに相応しいものが撮れたと判断すると、
「もう、撮れたね、好きなの撮って。。」
「どんどん、攻めて。。」
などと言って、ある意味、、、カメラマンに仕事をさせてくれた。
実際、そうやって確信犯で撮らせた写真を使うADの方もいたし、
クライアントの要望で攻めの写真が採用になることもあった。

デジタルによる連結撮影で、一枚一枚みてしまうと、
どうしても目の前に出てくる絵の細かいとこに目がいってしまい
もっと引きでのどういうものが相応しい写真なのかという目線が
減ってしまうように思える。。。
「K点越え」を飛ぶ為の助走のシャッターも見られてしまうのも
気持ち悪いし、デレクションの邪魔にもなるかもしれない。
アナログ時代のような必殺な大局デレクションを口にする間もなく、
どんどん次の絵を見て、気になる細かいことに囚われてしまっていないか?
写真的には「あり」なのに、となりにしっかりラフが置いてあるせいで、
きちんと見比べたりして「それはいらないかな〜」
とすぐに言われそうで攻めきれなかったり。。
つまり、いちいちこまかく確認しているうちに、
ラフという予選通過のための合格点のような
ガチガチな写真になってしまう気がするのである。

最近、いろんな媒体を見て、
デジタル撮影によるこの予選通過な合格点写真を感じる事がよくある。
写真が弱っているとさえ思えることもある。

先日、日本人の女子中学生高梨沙羅さんがラージヒルで
141mを飛んで世界大会で優勝した。
彼女はジャンプが怖くないと言っていた。
デジタルという新たな武器を持った
おじさんカメラマンも負ける訳にはいかない。
がんがん 「K点越え」を飛ぶつもりだし、
そのための方法を探っていこうと思っている。

スタッフが力を合わせて攻めたアナログ仕事の記録
日帰り千葉で、この倍のカット数
日が暮れてしまい最後の右下の車のカットは、
なんとシャッタースピード1秒・・
楽しい 「K点越え」だった。

Hasselblad  ネガ スープラペーパー

2.23.2011

四国ばあちゃん

母方の祖母は瀬戸内海の大三島というところに住んでいた。
小学生の頃は毎年といって言い程、
夏休みになると四国ばあちゃんの家に遊びに行っていた。
宮浦港の大きな鳥居の脇で、たばこ屋兼雑貨屋を営んでいた実家の建物は、
昔ながらの古い日本家屋で、
いまでも蚊取り線香のにおいを嗅ぐと、
文豪が登場しそうな2階の部屋や、古びたタイル貼りの風呂や、
軍服を着た祖父の遺影が飾られたせまい居間、
店の脇で海水を洗い流した使い込まれた蛇口の輝き、、
家の前に広がる瀬戸内海の情景が蝉の鳴き声とともに目に浮かぶ。
時折、道路から飛び込んで遊ぶ従兄弟のだれかが溺れては、
父親クラスが血相を変えて服を着たまま助けに飛び込んでいたのも、
今となってはいい思い出である。
いまだに濁った海に入るのが得意でないのは、
間違いなくこのお世辞にも綺麗とはいえなかった海で
足に絡み付いていた海藻のせいである。

独立して間もない頃、
久しぶりに四国ばあちゃんの写真を撮りに行った。
ばあちゃんの店は、相変わらず港の溜まり場になっていて、
お客さんもばあちゃんも、みんな腰は曲がっていたが、
とてもあたたかい空間だった。
子供の頃とまったく同じように、
ばあちゃんは「好きなアイス食べていいよ」と言ってくれた。
こっそりパチンコをしていたら、
周りのみんなには、タバコ屋のばあちゃんのとこの孫が来たとばればれで、
すぐさま近所中に広がり、
島の従兄弟が車で久しぶりな大三島を案内してくれた。

それから数年して、四国ばあちゃんは亡くなった。
私が物心ついた時から、既に足が悪く、
いつも荷車を杖代わりにして元気に歩き回る、
ずっと変わらなかったそのばあちゃんの記憶に、
もうひとつ、、静かに目を閉じて小さくなった顔が加わってしまった。

遺品の中から戦死した祖父とマニラで営んでいたバーの写真が出てきた。
カウンターにはびっしりとお酒がきれいに並べられた
素晴らしくオーセンティックな店の中で、
ゴールドラッシュに湧く外人達の古い写真のように、
客もばあちゃんもひかり輝いていた。
第2次大戦以前の日本人がコスモポリタンであることを強烈に感じた。
私の母親はこのとき、ここで生まれている。

アイスを貰うのもいいが、ばあちゃんが今までどんな人生を送り、
何を考えて生きてきたのか、きちんと話を聞いておくべきだった。。

そんな悔しさもあって、忘れないうちに、記録することが出来るうちに
何か残しておこうと思い綴っているこのブログである。
ネット上のこういうものが、今後どうなるかはいささか疑問だが、
そこにあった意思がなんらかの形で残る事を祈るばかりである。

2008年、BRUTUSの別冊TRIPの「しまなみ海道」取材で
とよしまの素晴らしいリゾート「ヴィラ風の音」を訪れた際に、
早朝に散歩していた私にオーナーが声をかけてくださり、
エンジンを2基積んだクルーザーで島の周りを爆走してくれた。
あまりの気持ちよさと迫力のどさくさまぎれに
大三島に祖母が眠っていることを話すと、
こころよく島まで乗せて行ってくれた。
水軍気分で豪快に瀬戸内海をクルーズして、
(この際に撮った本四架橋が特集の扉となっている)
しずかに宮浦港に入った。
鳥居は健在だった。
誰も住んでいない実家が残っていた。
入り口の引き戸のほこりだらけのガラスに
指で「達也参上」と書いた。
ライターの渡辺さんと3人で、港から大山祇神社までゆっくりと歩いた。
そしてアーケード内のベンチに3人が座った瞬間、、、
3月の31日という時期にもかかわらず、
いきなり大粒の雹がはげしく地面をたたいた。
あまりの迫力に言葉を失っている私にオーナーが、
「おばあちゃんがよく来たって言ってますね。。」
ほんとうにその通りだと思えた。

今度は、もう一つ行きたいところがある。
独立した時に撮りに行った四国ばあちゃんと島の写真を収めたアルバムが
島の役場に資料として保存されているらしいのである。
そのアルバムに、このブログをリンクするアドレスを
孫として、書き記したいと思ってる。
そして四国ばあちゃんの大昔の写真もここに追加していこうか、、、
などとロマンチックな事を思っている今日この頃である。

Hasselblad 100mm トライX

2.19.2011

母の一言

先日、雑誌Numberの取材の際に、
別府の「一力」で美味しいホルモンを頂いていたら
母親から電話が入った。
無事退院したということで、久しぶりに楽しそうな声だった。
入院中に郵送していた祖父の眠る靖国神社のお札と写真のお礼だった。
「お札、名前まで入れてくれてありがとね〜
神社のポスターも、あんなにたくさん、ありがとね〜」
「ん?ポスター?あ〜あれ写真だよ、、俺が撮った。。」
「あ〜あれ、あんたが撮ったんかね?ひぇ〜すごいね〜。。」
どうやら私がインクジェットでプリントしたものを
ポスターと勘違いしたようだった。


母は時々、面白い事を言う。

大学生の頃、原宿でバイトをしていた先で、
雑誌「オリーブ」の”原宿で働く素敵な彼”という特集で取材された時に、
その記事の「原宿の古着屋でよく服を買います」というのを見て、
当時の狭いアパートの黒電話に、母が泣きながら遠距離電話をかけてきた。
「たつや、、ごめんね。。あんたに古着ばっか着せて、、
いまだに古着着る癖があるのは、お母さんのせいやね〜
ごめん。。ごめん。。ほんとにすまないね〜」
確かに男4人兄弟の3号機である私は、
幼い頃はほとんどの服が兄の「古着」だった。
しかも3人が着るとさすがに着れなくなってたようで、
末っ子を見ると、新しい服になっていた。
4人兄弟の中で、私がいつもいちばん「古着」を着せられていたことを
母はどこかで気にしていたのかもしれない。

30歳を過ぎて独立して、母が東京に遊びに来た折、
私が履いていたコムデギャルソンの縮絨素材で出来た、
サイドの部分の余った生地を山折にして縫い込んであるような
デザインのパンツを見たときも。。。
「あんたは、ちゃんと仕事してるのに、
そうやって古いものを今でも縫ってはいちょるんかね。。みっともない、、
ごめんね〜昔、おかあさんがお古ばっか着せてたせいやね〜
ごめんね。。。ごめん。。(涙)。。」

なんというか、こまかく説明するのも面倒だし、
おとなしく涙を流してくれてるくらいがいちばん可愛いので
あまり突っ込まないようにしているが、
なんとも胸がきゅんとする一言である。

普通にプライベートで撮った写真を
ポスターと勘違いして喜んでくれるなら、
親孝行でいくらでも写真を送ってあげようと思う。

祖父が眠る靖国神社のなんちゃってポスター

Hasselblad H3DⅡ-39 ISO50 35mm

2.16.2011

Michael Jordan

1996年、マイケルジョーダンさんが初来日した。
雑誌ポパイが特集を組むということで打ち合わせをしたが、
さすがにスタジオで個別に取材に応じて頂けないようで、
イベントと記者会見の撮影に臨むことになった。

横浜アリーナで開催された「Nike Hoop Heroes」というイベントには
すごい数のカメラマンが集結していた。
バスケットボールの神様の初来日ともなれば、当然である。
当時メンズクラブの連載で
スタジオでアスリートを度々撮影していたこともあり、
スタジオでマイケルジョーダンさんを撮れないのがとても悔しかったが、
彼程の大物になれば、そうたやすく雑誌の個別の取材に
応じる訳にもいかないのも、納得である。

少し早い時間に会場に入り、エキシビジョンが行われる
バスケットボールのコートを下見した。
大砲のような望遠レンズが無数に彼に向けられて
ものすごい枚数の写真が撮影されることは明らかだった。
なんとか、他のカメラマンが撮る絵と
違うようなものが撮れないか考えた。
もちろん彼が写っているだけで、それはそれで素晴らしいが、
私自身としては、中途半端に背景に他の選手が写り込んだり、
コートの反対側の観客等が後ろでぼけているような写真にはしたくなかった。
もちろん仕事としていろんな状況の写真は撮るにしても、
なんとかシンプルなポートレート的なものを狙っていた。

ふと目についたのが、大きなスタンドに乗せられたスポットライトだった。
主役の入場する時には、
会場のライトが落とされてスポットライトだけになることを確信した。
念のために会場の整理をしているスタッフに確認したら、思った通りだった。

400ミリのレンズを構えて会場が暗転するのを待った。
おそらく会場に入った彼はスポットライトを受けながらドリブルをして、
調子がよければ空中を舞うはずである。
こういう撮影、特にスポーツ関係においては、
どこから狙うのかも含めて、
目の前で起こることを予測するのもとても重要になる。
ファインダーの中で獲物を狙うことも大切だが、
カメラを構える前の経験と知識と情報もとても大事なのである。

新しいフィルムを装填して、自分の中でのメインカットに備えた。
会場が真っ暗になり観客の騒ぐ声とともに
スポットライトでバスケットボールの神様が浮かび上がった。
彼はドリブルをしながら走り出した。
だいたい、こういうのは時間的には一瞬である事が多い。。
夢中でシャッターを切った。
シュートの姿勢で空中に浮かんでからは、
足からなにか出てるんじゃないかと思えるような
優雅さと滞空時間の長さを感じた。
エアーというニックネームの由来を思い知った。
跳躍力のある動物が足が細いのと通ずるように
神秘的に足が細かった。

スポットライトだけで撮影した黒バックの写真を
ブックに納めることができた。
その写真は紙面を飾ることは無かったが、
仕事においてはお気に入りのものが
採用されないこともよくあることである。

 「ジョーダン、スタジオでよく撮れましたね!」
と、時々聞かれたが、、
実はそういうからくりなのである。

今時であれば、デジタル処理で背景を黒くしたり、
スタジオで撮影したように加工することも可能だとは思うが、
これ以外で、真っ黒の背景に浮かび上がる彼のライブの写真は見た事がない。

Canon Eos1N 400mm ポジ

2.15.2011

Ulm

1998年、シートベルトのTAKATAの会報誌「FASE」の取材で、
プロデューサーでもある編集長の山本さんと
レンタカーでのドイツ一周約2週間の旅に出た。

どこに行っても、川があり教会を中心に街が広がっていて、
それらを繋ぐようにアウトバーンが整備されていて、
街に近づく度に強制的にラジオから道路情報が流れ、
自然に車の流れが遅くなるように道路が工夫されている。
街には必ずといっていいほどサッカーボールの看板が立っていて
サッカー場があることがわかる。
市街地の道路にはアスファルトを盛り上げた障害があり
低速での走行が義務付けられる。
それを抜けると「ダンケ」の看板があり、
ふたたび速度制限なしの高速道路へと繋がる。
車社会一つを見るだけでも、
ドイツの大人なお国柄を感じる事が出来た。

スイスで通行税を払っていなくて罰金を取られたり、
ポルシェ博物館が休館だったり、
紫のスーパーカーが集まっていたバーデンバーデンの温泉で
白人美女と素っ裸で混浴したり、
ドイツ最高峰のスキー場にロープウエイで上ったり、
ドナウの流れを見ながらランチをしたり、
ちょうど開催中だったフランスワールドカップを
ビール片手にパブで観戦したり、
みんなの真似をしてゴールが決まる度に
クラクションを鳴らしたりしながら、、、
車にまつわる写真を撮り、
メルセデスやBMWのスタッフのインタビューや写真取材をした。


写真はUlm(ウルム)という街で宿泊した小さなホテル。
外から見ると、傾いている古い建物だが、
内部は意外に近代的なリノベーションが為されていて、
柱や壁は曲がっていたがとても贅沢な空間だった。

なぜだか忘れてしまったが、どうしてもキャッシュが必要になって、
ホテルの近くの銀行で、シティバンクのカードが時間制限で
ディスペンサーに飲み込まれて、戻ってこなくて大慌てしたこともあった。

古さと新しさをきちんと混合しながらも、
美しい町並みや、黒い森を維持して、
まっとうな社会のシステムを実現している
ドイツという国は、とても素晴らしいと感じた。
(時々、デモで大暴れしているのも、
ドイツだと許せるような気さえしてしまう)
 日本と同じ第2次大戦での敗戦国であるにもかかわらず、
大人な歴史を刻んでいることが少し悔しく思えた。


いまだに仕事をしないで内輪もめばかりしている政治家に任せていたら、
日本は、いつまでたってもいきあたりばったりな国にしかならない。。
国民総生産が何位とかじゃなくて、
そろそろ別の次元の政治が、求められていると思う。

Hasselblad 903SWC ネガ スープラペーパー

2.14.2011

清水寺

中学校の修学旅行で初めて見て、度肝を抜かれた。
親父が大工だったせいだろうか、、、
日本で一番好きな木造建築物、というか迫力のやぐらである。

最近は京都に仕事で行ってもとんぼ帰りで、
清水寺も随分と御無沙汰してしまっている。

撮影の仕事が終わって、
すぐに納品というシステムが出来上がってしまったせいか、
ロケ先で延泊したり、都内でも飲みに行く機会が減ったのは、
デジタル化による変化のひとつである。

Ricoh GR1 トライX

2.12.2011

SIGMA SD1

SIGMA SD1

今、一番気になっているカメラである。
もうじき発売されるこのカメラは、
一般的なカラーフィルターで色を作るデジタルではなく、
ダイレクトに色を感じ取るフォビオンというセンサーを持っている。
今までもフォビオンセンサーのシグマ製のカメラはいくつか発売されているが
ようやく画素数が増えたセンサーを搭載するようである。

ずっと気になっていたセンサーだったので
約2年前にSIGMA DP2というコンパクトタイプのカメラを購入した。
すぐに家の前でテストして、
その素直な空気感と自然なシャープさを持つデータに感心した。
どんどん使いやすくなっている他社のコンパクトに比べれば、
いささかレスポンスは劣るものの、
見た目の空気感をそのまま捉えるようなセンサーにとても可能性を感じた。

「弘法、筆を選ばず」
「カメラなんか、何使ったって一緒」
と言いたいところだが、
カメラという道具がないと何も出来ないカメラマンとしては、
カメラによって異なってくるアプローチの仕方やレスポンスに応じて
いろんなカメラを使いこなすのも大切なことだと思っている。

独立以来、当時最も使いやすく信頼できたEosを使うようになって、
仕事で使う35mmはもっぱらEosだったが、
Fマウントを継承したことで多少出遅れたNikonの
最近のデジタルのボディもレンズも
とても素晴らしいものになってきて、
Nikonに換えてみようかとも思ったりしている。
新開発のレンズや倍率色収差の自動軽減機能によって
解像度・抜けの良さという点で、
Nikonが一歩リードしたようにも見受けられる。
Nikonにセンサーを供給しているSONYの元ミノルタαも
捨てがたいレンズを揃えている。

Nikonか
SIGMAか
SONYか
Eosの新型を待つか?

購入したばかりのハッセルのデジカメも、
既にかなりラフに扱うようになって、立派な愛人となった。
画素数争いではない時代に突入した今、
どんな状況でも心中できる35mmの相棒を
真剣に考えているところである。

写真は、SIGMA DP2で始めに撮ったもので、
なんでもないものを、さらりと不思議な迫力で見せてくれたことに驚いた。
めずらしく一目惚れしてしまった。

SIGMA DP2 ISO100 f3.5 1/60

2.11.2011

Glenn Braggs

1994~1995年、独立したての頃だったが、
雑誌メンズクラブで話題のアスリートを取り上げる
7〜8ページの連載の仕事を頂き、約一年間撮影させて頂いた。

その中で外国人野球選手の特集で撮影させて頂いた一枚である。
ブラッグスさんのパワフルなスイングと、
スレンダーな筋肉の固まりのような黒い体をテレビで見ていたので、
とても楽しみに撮影に臨んだのを憶えている。

球場の小さな部屋でストロボをセットしていたら彼は現れた。
笑顔で握手をして頂いたが、
空こそ飛ばないだろうが、
実はスーパーマンじゃないかというような体だった。
タイトなユニフォームから突き出た腕の盛り上がった筋肉と血管は、
サラブレッドやバッファローのように動物的だった。
当時はまだK-1などのがちんこ格闘技はなかったが、
今だったら間違いなくオファーがかかるような、
とてつもなく張りのあるオーラを放っていた。

そんな彼がデッドボールを受けると、
一目散にピッチャーに突進して殴りかかっていたんだから、
当時のピッチャーは生きた心地がしなかったはずである。



撮影の最後に、、、
デッドボールを受けた時の鬼の形相をして欲しいとお願いしてみた。。。
すると彼はすぐさま立ち位置から走りだして部屋から出て行った。
?と思っていると部屋に駆け込んで来て、真顔で私にボールを手渡した。
そしてバットを持って再び立ち位置に戻り
 「俺に向かってボールを投げろ。。(素振り)。。」
一瞬ほんとに投げようかとも思ったが、
編集の方も球団の広報の方もいたので、さすがにそれは出来なかった。

正真正銘の、気は優しくて力持ち。
私の中ではブラッグスさんはスーパーヒーローなのである。

 Hasselblad 100mm プラスX

2.10.2011

宮沢和史

ハッセルのデジカメで撮影してきたポートレートのモノクロデータを
等倍表示にして、瞳の血管の一本一本まで描写されているのに驚きながら、
以前撮った写真のことを思い出した。

たしか1998年頃、既に廃刊となっている講談社のViewsという雑誌で
宮沢和史さんを撮影させて頂いた中の一枚である。
履き古した皮のワークブーツでバイクに乗り
一人だけでスタジオに入られた宮沢さんを見て、
すぐに目を撮りたいと思った。

2段増感したトライXのプリントが紙面になったものでも、
目の血管一本一本がきちんと写っている。
もちろんレンズ性能や、プリントや印刷時の曖昧さなどで、
ハイエンドなデジタルカメラのように、
引きの写真から目の血管を確認することは難しいかもしれないが
きちんと狙いをつけて撮影をすれば、
ある意味デジタルのモンスターなピクセルは必要ないのかもしれない。

ピクセル単位ごとに調整が可能なことで、
どうにでもできてしまうデジタルな写真よりも、
非常にコントロールしにくいアナログの写真のほうが、
言葉にはしにくい写真の力を帯びているようにも感じる。

デジタルカメラは進化を止めることはないだろうが、
デジタルという道具を使っても
「写真」を撮っていきたいと思っている。

モノクロネガとして生まれた写真がカラーとなりポジが生まれた。
そういう変革のタイミングで写真を撮って生きてきた人たちは、
それをどんなふうに感じていたのだろう。。
インターネットという大きな波とともに生まれ落ちたデジタル写真は、
周辺に大きな変化をもたらしたが、
私の中の「写真」が、今後どうなっていくのかとても楽しみである。

Mamiya RZ67 トライX +2 イルフォード5号

2.05.2011

ネス湖

1997年、ダイアナ妃が不慮の死を遂げてしまった。
オルソープに埋葬されたニュースを見て、
悪友二人と一緒に献花をするためにイギリスに渡った。

ヒースローからエジンバラ行きへの乗り換えで、
ぎりぎりで駆け込んで始まった
イギリス中をめぐる、いい年こいたまぶだち3人衆のレンタカーでの旅は、
一生忘れられないものとなった。

夜の10時過ぎにセントアンドリュースに到着して、
宿代が20万にもかかわらず、ただ飲んで寝るだけだった初日にはじまり、
ゴルフでは数十個のボールをロストしたり、
スコットランド中の古城を見て回り、
ストーンヘンジで居眠りをして二日酔いをさましたり、
カロデン古戦場の博物館で音声ガイダンスに日本語があって
妙に歴史の勉強になったり、
ドーバー海峡で郷ひろみのカセットをかけながら黄昏れたり、
BBの窓から裸でお尻を並べて写真を撮ったり、
ハーマジェスティの幕間にクリュグを抜いて、
怪人のマスクをしままま「オペラ座の怪人」を見たり、
ロンドンのクラブでギャルと盛り上がったり、
ビックベンの真下のベンチで警察がくるかどうか賭けて朝まで飲んだり、
リバプールでビートルズのカラオケをしようとしたが
お店がやってなくてマクドナルドを食べたり、
ドーバー海峡が車で走って渡れると勘違いしてて、
列車に積み込まれる寸前で引き返したり、
ボンドストリートで駐禁のチケットを切られたり。。。。
無事、オルソープのスペンサー家の門の前に献花をして、
自作のポストカードにメッセージを残してきた。

そんなことや、あんなこと、、
思い出したらきりがない珍道中で、
一番不思議な記憶が残っているのが、ネス湖のほとりで宿泊したBBである。
宿はロンドン以外は、いきあたりばったりだったが、
さすがにネス湖畔のそばに泊まろうということで、
湖のまわりを流して、あるBBを探し当てた。
見逃してしまいそうな看板をたよりに細い道を入っていくと、
庭にとても小さなスチールのモーターホームが置いてある
2階建てのBBがあった。
車を降りて、様子を見ていると
20歳前と思えるかわいい女性が家から出てきた。
決まり、である。
男3人の旅において、最優先される条件が真っ先に提示されてしまい、
男同士顔を見合わせて確認するまでもなかった。

建物は決して新しくないが、部屋はこじんまりとしていて十分だった。
世間では、よく日本人の住んでる家が小さいとか言われるが
ぶっちゃけ海外の普通の民家は、
そんなに大きな部屋だと思う事はあまり無い。
むしろ、欧米人の体の大きさを考えると、
日本人よりも体感的には部屋は小さいんじゃないかと思うこともある。
ほかにお客がいないこともあり、
貸し切りの2階で3人それぞれの部屋のドアを開けっ放しで
ゆっくりさせて頂いた。
少し古いと、不気味さを感じてしまうイギリスの田舎の建物だが
ここの部屋の壁紙は、少しポップでとても落ち着いたのを憶えている。
ネス湖の古城を散策して、お約束でネッシーを探して、
近くのレストランで夕食を済ませてBBに戻り、3人で酒を飲んだ。
窓の外には、月が映ったネス湖のきらめき。。最高である。
ただ、、、親父さんと二人しかいないというこの家の
庭のモーターホームの小さな窓もオレンジ色に光っていた。
どう考えても家の方には我々以外の人がいる気配は無い。
ということは、、その小さなスチール製のモーターホームの中に
親父さんと年頃の娘さんが二人で休んでいるのである。。
ありえない。。
あんなことや、こんなことを日本語で酒の肴にして夜は更けた。

始めしかお湯がちゃんと出ないことが分かっているので、
ジャンケンで順番を決めてシャワーを浴びて、
小さな天窓の月明かりを見ながら床についた。
どこに行ってもあまり寝付きのよくない私が、
ようやくうとうとし始めた頃、、、
ドップラー効果満点のすさまじい爆音がした。
3人とも、飛び起きた。
どう考えてもジェット戦闘機がネス湖の上を飛び去った音だった。

翌朝、シンプルなモーニングを用意してくれた彼女に爆音のことを訊ねると、
イギリス空軍が時々、ネス湖の上をぎりぎりで飛ぶらしいということだった。
世の中、いろんな不思議なことがあるものである。
オリーブドラブの長靴を履いた後ろ姿だけしか見れなかった
親父さんのことを突っ込むような無粋なことはせずに、
犬と遊んで、飼っている羊を見せてもらい、ハッセルで彼女の写真を頂いて、
イギリス最北端のジョノグローツ目指して宿を出た。

どこを走っても車のCMに使えそうなランドスケープを飛ばして、
ジョノグローツの美しい岬にそびえる白い灯台で一服した。
「The End Of The Road」という看板を折り返し、
なぜか男3人、、暗黙の了解で彼女のBBにもう一度戻るルートをとっていた。

BBに戻ると、彼女はお茶を入れてくれた。
我々男3人は、なぜか嬉しそうに
「ジョノグローツ、行ってきたよ!すごくいいところだねっ!」
彼女は寂しそうに、答えた。
「私、まだ、そこ、、行った事がないの。。。。。」
「(え〜〜〜?!!!!)・・・・ 」
約200キロ離れた場所とはいえ、
年頃の彼女がそこに行った事がないというのは、
とても不思議だった。。
頭の中で、明かりの点いたモーターホームがちらちらしたが、
他人の家庭の事をあれこれ詮索するのは失礼である。

もちろんアジア人の車に乗ってくる事は無かっただろうが、 
彼女をジョノグローツまでのドライブに
誘ってあげなかった事を、3人で車に戻って後悔した。
そして、、その夜は、ネス湖畔の別のBBに泊まった。

あれから14年、彼女はどんな人生を送っているんだろう。。
もしネス湖を再び訪れる機会があったら、
この写真を手渡したいと願っている。

Hasselblad 80mm  ネガ ポートラペーパー

2.02.2011

日韓ワールドカップ

2002年6月18日、
予選を勝ち抜いた日本はトルコにあっさり負けてしまった。
なんともつまらなくて、なにげなくTVを見ていると、
ソウル市庁舎前に膨大な韓国サポーターが集結しているのを見て、
「そうだ、、今度は韓国を応援しよう。。ついでにここの写真も頂こう。」
韓国人の友人に連絡をして21日にソウルへ飛んだ。

空港まで車で迎えにきてくれた友人の後輩に
リクエストして、プルコギを食べた。
地元で評判らしい庶民的な食堂だったが、
野菜達がどれも新鮮で、とてもしっかり自己主張していた。
顔は一見似てる日本人と韓国人、、、
骨格や性格が、とても力強いイメージを持っていたが、
肉や野菜までも迫力が感じられた。。。

翌朝、スタジアムの真ん中にいるような
「テーハミング」の地響きで起こされた。
ニュースでは85万人のサポーターが
ソウル市庁舎前に集結していると騒ぎ立てていた。
ライカM6とワイドラックスF8を持って街に出た。
先輩の指示で、翌日も来てくれた後輩の彼と街を進もうにも、
既にすべての場所が大混雑していて思うように前に進めない。
いたるところで警察がゲートを設けているせいもあり、
道の向かいにいくだけでも時間がかかった。
まだキックオフまでには時間があったが、
閉口している彼と、とにかく広場に面しているホテルに
なんとか辿り着こうということで、
ビルの中を抜けたり、人並みをかき分けてなんとかホテル前に着いた。
渋谷のスクランブル交差点に85万人が集結しているようなものである。
街の全ての道路にぎゅうぎゅうに人があふれ、トイレに行く事すらできない。
老若男女問わず身動きできない状況で、
みんなトイレはどうするのか、不思議に思い、
彼に訊ねると、、「みんなオムツしてんすよっ」
さすがである。韓国人、おそるべしなのである。

いろいろ動き回って撮影しようと考えてはいたが、
数メートル進むのさえままならない。
一枚いい写真を撮ろう。。
一撃必殺に作戦変更した。
ホテルの建物の屋上を見ると報道関係らしき人影が見えた。
ホテル内はプレス限定で入場制限していた。
一瞬、準備不足を後悔したが、財布を見ると、
なぜかたまたま某出版社のプレスパスが入っていた。
写真の神様、さすがである。
彼と試合後にホテルの前で合流する約束をして、ホテルの玄関に突入した。
そして、まだあまり人が入ろうとしていないプレス入り口が
混雑してくるのを、タバコを吸って待った。
キックオフの2時間程前にどっと報道関係者が入り口に集まってきた。
すかさず「ニッポンマガジンです!」と日本語で話し、
プレスパスを見せて、漢字で書類にサインをしてホテル内に入り込んだ。
わきめもふらずに屋上に向かった。

壮観だった。
85万人による「テーハミング」の咆哮は凄まじかった。
地面も空気も人々の気持ちも轟いていた。
ソウルの街を埋め尽くす、85万人のオムツをした真っ赤なサポーター達が
まるで写真の粒子のようだった。
アメリカなどでは良く見かけるが、巨大なクレーンで旗を浮かべている。
しばらくして、うまく潜り込んだ彼も屋上にやってきて
自国のサポーターの眺めにとても興奮していた。

15時にキックオフした瞬間、
無数の赤い風船が空に舞い上がったのを見て
ワイドラックスのシャッターを切った。

この試合は、PK戦のすえに韓国がものにしてベスト4に進んだ。
その夜、大騒ぎのソウルのスポーツバーで、合流した友人と祝杯をあげた 。


先日、日本はアジアカップに優勝した。
どの試合も、とても楽しめる素晴らしい戦いだった。
2014年のブラジルワールドカップで、もし日本がベスト4になったら、
日本のお上も、巨大なモニターが林立する渋谷のスクランブル交差点くらい
パブリックビューとして解放する懐の大きさを見せて頂きたい。
この写真と並べる、青い「パノラマ」として「PANORAMAN」に加えたいと思っている。

→PANORAMAN

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