3.28.2011

父の写真と企救中


スタジオアシスタントを約2年勤めて、卒業する事を意識した頃に、
人物を撮るカメラマンとして独立するのであれば、
一番身近な人間である父親のいい写真を撮る事が出来なければ、
話にならん!と決意して母と父を東京のスタジオに呼んだ。

どうしても両親の記念写真を撮りたいからと
足の悪い母親に無理を言って遠路はるばる来てもらった。
二人の写真を撮った後、母がトイレにいってる隙に、
父親のゆるんだゴムの下着を脱がせて、体の写真を撮っていたら
母がトイレから戻って来た。
「あんた!何しよんかねっ! 」
母親は、大声で叫んで、泣いていた・・

このときに撮った親父の手、足、顔、尻の組み写真は、
1994年のコダックフォトコンテストでグランプリを受賞した。
受賞式で審査員長をされた電通の写真部長が冒頭の挨拶で
「見た瞬間に、グランプリが決まった。
大変だったのは、それ以外の賞を決める事だった」と言ってくれた。
写真作家としてでは無く、商業カメラマンとして独立したかった私にとって、
商業写真のプロにずばり選んで頂いたことが、実はとても嬉しかった。
賞金があれば、まるまる母親にプレゼントしてるところである。
そして会場に展示された大伸ばしの写真を作成したプロのプリンターが
「オリジナル、、いいプリントですね〜
どうやっても同じような感じに出来ませんでした。」と言った。
当たり前である。
これから写真だけで食っていくことを賭けて、
父親のパンツを脱がせ、母親を泣かせて撮ったプリントには
それなりの気合いってもんが詰まってるのである。

手の写真では、大工仕事で落としてしまった人差し指に
不自然に爪が生えている。
いつも何不自由なくタバコを吸っていた。
現在の名刺の裏に使っている写真である。

それから16年、おかげさまで写真だけで飯を食ってきた。
久しぶりに自主作品を撮る決意をした。
「企救中」(きくちゅう)である。
ウイークエンダーというTV番組の中で
日本で初めて校内暴力で取り上げられた北九州小倉の我が母校である。
中学生というまだ出来上がっていない人格のまま擦違い、
まるでジャングルのように無法地帯だった時間と空間を共有していた
同級生達のポートレートを撮りたくなった。
16年間の商業カメラマン生活で身につけた武器で、
記憶の片隅に残っている「普通の人々」に対峙してみたくなった。

計画を立てて、親しい友人に連絡をとり、第一弾の撮影の日取りを決めた後に
未曾有の大地震と、利権と保身にまみれた原発災害が発生してしまった。
揺れる大地と飛び交う放射能ごときで断念すると思ったら大間違いである。
忙しい中、連絡をまわしてくれた旧き友人達のおかげで
先週末に「企救中」の初回の撮影が終了した。
撮影場所は、昼間はタイムマシン「企救中」(教育委員会許可済み)、
夜は企救中のすぐそばにある元番長の経営する居酒屋(営業中)である。

30年の風を顔に刻んだ男達は、
カメラの前に立ってストロボの光を受けるだけで
ファインダーの中でどんな人生だったか、話しかけてきた。

女達は、どんな人生だったかを隠すようにファインダーの中で振る舞った。

東京に戻る新幹線でハッセルの写真データを見ながら、
ドイツの肖像写真の巨匠アウグストザンダーが
笑顔を封印していた意味に触れたような気がした。


この場を借りて、
お集り頂いた地元の皆様と、
微妙な時期にもかかわらず遠方から駆けつけてくれた方々、
中心になって連絡をまわして頂いた方々に、
心からお礼を申し上げます。
ありがとうございます!

また、夏に伺います。
今回、参加出来なかった皆様、
もう一度、カメラの前に立って頂ける方、
目に入れても痛くないないお子様がいらっしゃるなら
子供もろとも参加して下さい。
なにとぞ、よろしくお願い致します。