5.04.2011

カプリ島

放射能という目に見えない雲のおかげで、
日々の暮らしの中で、気持ちよく空を見ることが出来ない。
それを言い訳にして、朝までお酒を飲む機会が増えている。
家の近所で最高の1500円ランチを出してくれていた中華レストランも閉店となり、
好きなレコードをかけてくれるバー「エンドルフィンⅡ」も今月で閉店。


気になっていた福島3号機の爆発に関する外国人の見解
キセノンの検出データ
なんとも、、今頃言われても。。。である。
どうりで爆発したころのデータを東電・政府があまり公表しないのもうなずける。
プールにあった数百本の燃料棒は一体どこにいってしまったのか???
いったい何に向けて水をまいていたのか・・・
降下した放射性物質の月別推移
どうやら「安全だ安全だ」と繰り返していた爆発直後の3月あたりは
がっつり放射能が舞い降りていたようで、、、
このまま東電・政府主導で原発処理を続けていくことが正しいのかどうか?
放射能がたっぷり降った後でSPEEDIの降下予測のデータを公表したが、、、
ほんとに頭がおかしい政府である。
5年後10年後にどういった健康被害がでてくるのかを考えると頭がくらくらする。
FBIなんてものがあるのは映画の中だけで十分と思っていたが、
日本にも完全に独立したそういう機関が必要である。
(どうせまた新たな利権創出にもなるんだろうけど。。。)

今後も長期にわたって、
震災の影響が日本中にボディブローのように効いてくること考えると
原発の無いイタリアの小さな島に思いを馳せたりしちゃうわけである。


2001年のBRUTUSの「イタリアかぶれ」号の
たくさんのチームを現地に送ってイタリア中を取材するという贅沢なロケで、
取材地のひとつとして、モナコからフェリーに乗ってカプリ島を訪れた。

島の中ほどにある小さな高級ブランド店が立ち並ぶ「大人の竹下通り」では
世界中から集まった観光客がのんびりと散歩をして、
水着のままエルメスで買い物を楽しんだりしていた。
かわいい店舗を覗いては取材しながら、
すれちがう人たちに声をかけてをスナップしていたら
どこからともなく現れた4,5人の親父カメラマン達が私の後ろでカメラを構えていた。
私が動いて、ほかの人を狙うとみんながぞろぞろついて来て
私の後ろからシャッターを押していた。
「チャオ」と「ベリッシモ」と「グラッチェミッレ」くらいしかしゃべれない私は、
ひとりの親父に手招きされて近くの小さなおみやげ物屋さんに連れていかれた。
店内にはスナップされた写真が壁一面に貼られていた。
なるほど、、島を訪れた人たちのスナップを撮って、
それを店先で販売しているというわけだった。
その親父は「お前、うまいな~俺の店で働かないか?」
デジタルでもないのに撮り方で判断するのはさすが地元カメラマン親父である。
日本のドメスティックな雑誌の取材で来てることを説明すると、
「いつでもうちに来たら、雇ってやる」
そんな嬉しいこと言ってもらえるなら、、、
切り立った岸壁で美しい海をバックに最高の記念写真だって、、、、
青の洞門の中で紺碧の記念写真だって、、、
島中ロケハンして最高の旅の思い出写真を撮りまくってってあげたくなるじゃないか・・

こんな出会いもあったこともあり、島の美しさは私の中で特別なものとなった。
瀬戸内海の大三島という同じ地中海式気候が田舎であったDNAが
反応しているせいもあるかもしれない。


いつの日か、仮に私が行方不明にでもなって、
カプリ島で楽しそうに写真を撮ってる怪しい日本人を見つけたとしても、
見て見ぬふりをしていただければありがたい・・・

あ、あと、、
もちろんチップは弾むのはお忘れなく・・

Canon eos1N ポジ (click to view large size)