7.30.2011

BOSS HOG

1999年の夏、BOSS HOGのWhiteoutのキャンペーンで、
クリスティーナさんが来日した。

雑誌ポパイで撮影のお話を頂いた。2ページ見開きということだった。

(当時住んでいた三軒茶屋の近所の遊歩道で、
夜中によく犬の散歩で、シーナ&ロケッツさんご夫婦と遭遇していて、
犬同士は臭いを交換していたが、ロックな夫婦の迫力に押されて、
シーナさんに九州弁で同郷であることをカミングアウトできず。。。
ロック夫婦好き?としては、、、
アメリカのロックなご夫婦のBOSS HOGのことはなぜか少し知っていたわけで、、、
CDジャケットを見るとヌードなイメージだった。)

「クリスティーナ、、脱いでくれるんすかね?」
「うん、なんか、もしかしたら、いいみたいよ・・ただ、ポパイだからね・・・
スタイリストに相談してみるよ・・・」

なわけで数日後、気が付いたら狭くて古いスタジオの中2階から、
体を乗り出して、FUJIの690を倒したままの三脚に載せて首にストラップをかけていた。
真下には、セクシーで美しいクリスティーナさん。

真夏の暑い日、古いスタジオの天井に近いところは熱気が溜まっていて、
Whiteoutのグリグリくるロックな音をかけてしまったせいもあって、
汗が吹き出て止まらなかった。
ただ、そういうところに限って、顔の汗を拭いてくれるような
気が利いたスタジオマンがいるはずもなく、
カメラを絶対にモデルの上に落とすわけにはいかないので、
顔を拭かずにカメラをホールドしながら撮影を始めた。

1,2枚撮ってファインダーから目を離した瞬間、
あごの先から汗の雫がぽたぽたと、滴り落ちていった。
「あっ・・」
しずるの効いた水滴がスローモーションで
アメリカンビューティーな歌姫のお腹めがけて落下していった。
(「あちゃ~ごめんなさい!いきなし裸にされておまけにスタジオで寝かされて
しかも、アジア人の汗攻撃、、ま、怒られても、もう2枚押してるからいっか。。」)
刹那にそんなことを考えながら、、
「ごめんなさい!!ソリイッ!!」と叫んだ。
彼女は汗の落下を完全に見ていたようで、さすがに着弾するときは
「ヒエ~~」な顔をした。。。。が。すぐさま気にしないで~~~と言ってくれた。

ラボで現像済みのフィルムを受け取って、はさみで切っておしまいだった仕事も、
今時のデジタルであれば、おそらく寝ないで肌を綺麗にしてしまいそうである。

ひらがなで「ありがとう」とハートマーク付きでサインをしてくれたCDは、宝物になった。

FUJI GSW690Ⅱ型 カラーポジ

7.29.2011

伊良部秀輝

伊良部さんが、42歳の若さで亡くなられたらしい。
報道によると、自殺となっている。
信じられない・・・

大きな体と迫力のある雰囲気で、まさに職業ピッチャーという感じがして、
大好きな選手だった。

1995年頃、雑誌メンズクラブのアスリートの連載で伊良部さんを特集した。
豪快に見えるプレースタイルもあって、やんちゃでおっかない方なのかと思っていたが、
実は、とんでもなく理論派であり、繊細かつ優しい人だった。

マスコミ報道というのは、時として恐ろしい程に、
有名人の人となりを、まったく違うものとして世間にひろめてしまう。
おそらく、野球関係者の知ってる伊良部さんのイメージと、
テレビ・マスコミによってしか彼をしらない人のイメージは大きく異なっていると思う。
事実、私は直接お会いするまでは、完全に誤解していた。
つばを吐いたり、闘志むき出しのプレーが余計そうさせていたのも事実かもしれないが
普段の伊良部さんは、野球好きの優しいナイスガイだった。
テレビとスポーツ新聞しか見ない方は、
こんな優しい若い頃の伊良部さんの顔はあまり見たことがないのではなかったか・・

Hasselblad 100mm トライX
常々、思うのだが、、
スポーツ選手や芸能人がその舞台とはまったく関係のないところで
飲酒運転だの、おねえちゃんと悪さしただのとマスコミが騒ぎ立てるのは仕方ないと思うが、
それによってご本人達の名誉やプライド(プラス御家族)を、
必要以上に、しかも長期的に傷つけてるのではないか?
しかも、マスコミはその時だけ、盛り上げておいて、あとのフォローはまったく感じられない。

伊良部さんも昨年、飲酒運転で逮捕となっているが、
そりゃ~40年も生きれば、誰だって似たようなことはあるはずである。

初めて会うカメラマンにフランクかつ真摯に向き合って頂いて、
当時はまだ、商売道具のボールの握り方などは
人に見せるような時代ではなかったにもかかわらず
きちんと握り方の写真を撮らせてくれた懐の大きなお人柄に感謝している。

伊良部さんに何があったのかは、知る由もないが、
もし仮に自殺が真実だとするなら、、、
もちろんご本人の生き方だったのかもしれないが、
彼をそうさせてしまった今の社会にとても悔しい気持ちを感じる。

そして、伊良部さんのような方の経験やテクニックこそ、
これからの日本の野球に必要だったような気がしてならないのである。

早すぎる。。
心から、、残念でならない。。

合掌
Hasselblad 100mm チューブ  トライ

7.27.2011

Rolleiflex

数あるカメラの中から、作品用に一台を選んで旅に出ろと言われたら、
ぼろぼろの愛機ローライフレックス2.8GXを選ぶと思う。

今では滅びかけている2眼レフだが、
この刀を一本だけ持つと決めた瞬間に、写真の神様が召喚されると思えるほど、
魔法属性が高いカメラである。

数値的な性能には表れない、
シンプルに、静かに、被写体に対峙するという
もっとも写真にとって大切な「何か」をもたらすカメラだと思う。

ローライで撮影したモノクロフィルム現像とプリントの洗礼を受けた方でなければ、
ご理解頂けないかもしれないが、フォコマートⅡcでびしっとくるトーンが出せた時は、
写真の中心で愛を叫びたくなる。

そろそろ、デジタルアレルギーで、
衝動的に2台のローライを持ってどこかに行きたくなる。

(約13年前にドイツで購入してあるミントな2.8Fのフルセットは、
裏蓋にさびが浮いてきたぼろぼろの2.8GXとは対照的に、
時間が経てば経つほど、艶が出て美しくなってきてるようにも見える。
私があと4,50年生きたとしても、多分ピカピカのままだろう。
よく出来た工業製品の中にあっても2.8Fの枯れることを感じさせない
工芸的な美しさは目を見張るものがある。)


写真は、スタジオマン時代にスタジオの仲間と
八丈島に愛を求めて旅をした時のものである。
ローライフレックスを手にすると目の前の世界すべてが
自分のスタジオになった気分で写真を撮っていた。
目の前にいる人が、みんな素晴らしいモデルに見えた。
そんな時代のお気に入りの一枚。
(追記:地元のライフセーバーに一言「飛んでくれ」のローライマジック)

Rolleiflex2.8GX トライX

7.25.2011

広末涼子

夕方、自転車で東急ハンズに撮影に使う小物を買いにいったついでに、
大きな書店に立ち寄った。
何気なく女性誌を手に取って、ページをぱらぱらとめくると
女性の肌がどれも美しくぼかし修復された
写真達のオンパレードですこし驚いた。
別に写真の修整を否定するわけではないが、
せっかくの「雑誌」がなんだか肌修正コンテストファイルのようで、
文字まで気が回らなくなってしまった。


ふと雑誌CREAの広末涼子さんのインタビューページで手が止まった。
自分が撮影した写真でないのはすこし悔しかったが、
今までの写真とは違う、なにか、、大人になった彼女を感じた。

1995年、Jリーグのオフィシャルの仕事を2年経た頃、
雑誌POPEYEで、仕事を頂けるようになった。
ちょうど、その頃に広末さんもクレアラシルのCMで人気が出始めていた。
撮影が終わると、セーラー服に着替えて、
「高知に飛行機で帰りま~~す」と慌てながらスタジオを後にしていたのが懐かしい。

葛西臨海公園のロケで天気が悪そうな気配がしたので、
青空の布バックを用意していったらドピーカンになり、
青空布バックをリアル青空背景ではしゃぎながら撮らせてもらったり、
ディレクターチェアーを海において、おんぶして彼女を運んで座ってもらったり、
まだ、あどけない表情をマルチなレイアウト用に、
若くて元気なおかげで、百面相ができるくらい死ぬほど撮らせてもらったり、
リリーフランキーさんの書いてくれたイラストのまえで飛び跳ねてもらったり、
スタジオに風船をたくさん浮かべて撮ったり、、、
なんだか、毎回毎回、、まるで遊びに行ったように楽しい仕事だった。

たしか、まだ彼女が中学生の頃だったと思うが、、、
あるスタジオでの撮影のときに、
当時のポパイの編集の小崎さんに
「一枚だけ、気分変えた写真にしましょうよ・・モノクロで泣いてるとか。。どすかね?」
と、提案すると「いいよ、、やってみて・・」
当日に用意していたのはカラーポジだけだったが、
いざとなればフィルムなんてなんでもいいやという気合で、
着替え用のチューブを身にまとっただけで肩を出して、立ち位置に入って頂いた。

「最後にワンカット、、気分の違う写真を撮りたいんです」
うまく説明する自身がなかったので、直球で照れながらこう言った。
「泣いてくれ」
彼女はちいさく「はい」と答えてくれた。
もちろんメイクとスタイリングでうすうす感じていたとは思う・・

全国区に登りつめた、中学生のタレントさんに肩をあらわにして「泣け」と・・
いささか、強引ではあったが、
あらかじめ、、、事前に説明してしまうと、実現できなくなることもある。

スタジオの音を消して、ストロボのモデリングだけにして珍しく三脚にカメラを載せた。
ファインダーを覗くと、、、、彼女は「ちょっと待ってください」と言いながら
立ち位置から3歩ほど離れた。
そして30秒ほど、小さな肩を落として集中してから、立ち位置に戻った。
静かにシャッターを切り始めると、彼女の表情は見たことのなかったものになり、
瞳の中ではモデリングの反射がきらきらと動いていた。
もう、それで十分だった。
イノセントな静かな振る舞いも、はじけるような笑顔もたくさん頂いたが、
星の数ほども撮られるであろう彼女のアイドル写真の中に
どうしても自分の痕跡を記しておきたかった。
被写体に撮らされる写真ではない、こちら側の写真も撮っておきたいという
わかりやすいカメラマンの勝手なエゴに快く応えてくれた広末さんには、感謝している。

この写真は、めでたく雑誌の見開きを飾った。
事務所の許可を頂いて、共同展の展示にも使わせて頂いた。
5年ほど後の映画「WASABI」の時の雑誌取材でも大伸ばしにして、
御本人の背景として使わせて頂いた。

この写真を撮ってしまったせいで、
他の方に「泣いてくれ」と頼んだことは、いまだにない。

Hasselblad 100mm オリジナル:カラーポジ

7.22.2011

富士山

今から25年ほど前、バイクで仕事に向かう途中に新橋の交差点で
渋滞の間をすり抜けてきた右折ハイヤーに横から突っ込まれて、
交差点をまるまる空中ダイブして、ガードレールに激突。
くるぶしを骨折して鼓膜を破ってしまった。
救急車で警察病院に運ばれたおかげで入院にはならずに、
しばらく石膏のギプスをはめられたまま、ハイヤーに送られて通院生活をした。
ギプスを外してみると、くるぶしの内部が腐っていたようで、
小さなスプーンでがりがりと肉と骨をえぐられたときは、
痛い足も引きつるほど、体に電気が流れたようだった。
鼓膜はおかげさまで元通りに再生したが、
(再生させるために日々少しずつ鼓膜を突っついて傷つけるという
拷問のような治療法だった、折れてた足がまた折れるくらい体が硬直した)
くるぶしの関節は3ヶ月たっても、痛みはなかなか引かなかった。

いつまでも、足をかばって生活をするわけにもいかないので、
強制的にリハビリをするために一人で富士山に登るようになった。

休みがある度に、頂上小屋に予約を入れて
新宿からの高速バスにふらりと乗り込んで五合目に向かっていた。
大きなグレゴリーに持ってるカメラを全部詰め込んで、
三脚を持ち、大して眺めのいいとはいえない富士山行を繰り返した。

一人旅な外人女性をモデルにしながら登ったり、
頂上小屋で、高山病で具合が悪くなった時に、
信じられないくらい臭いおやじに看病され、添い寝されて余計具合が悪くなったり、
それがいやで、それ以降テントを使うようになり、
台風の最中も、もし何かあったらすぐ逃げ込んで来なさいと言われながら
激しい風雨の中、お湯を沸かしてカップヌードルを一人で食べたりしていた。
当時は、平日などはあまり人がいなくて、
御来光に向かってカメラを立ててシャッターを押している時間は
風はすごいが、とても静かないい時間だった。

3,4年経って、十数回登った頃に
足のうずきもなくなってきたことだし、
リハビリはもういいや。。ということで、
その後も白馬縦走などには行ってみたが、
富士山に登ることはしなくなった。


2002年にコールマンのカタログの撮影で
ロケ場所として、久しぶりに五合目を訪れた。
それ以前は、富士山にだけ気持ちが向かっていたせいで、
ロケハンに行くまで、五合目の手前の左側の駐車場から
続く遊歩道の存在をまったく知らなかった。
機材が多いとアクセスが少し不便だが、
風にさらされて曲がった樹木や、間近にそびえる富士山もあって
なかなか楽しいお中道散策コースである。

ここ数年は、富士山登山も流行っているようで、
嫁や姪っ子たちが毎年のように、私と犬を留守番に残して登っている。
富士山もいいけど、他の有名な登山道も楽しくて綺麗だよと話しても、
あまり聞いていないようである。

確固とした倫理・宗教観のない日本人にとって、
富士山を登るという行為は、
現代にあって非常に貴重な、共有しうる「聖地巡礼」なのだと思う。


写真は、お中道の駐車場から山側の富士山の斜面にて。
いつもお世話になっていたタフなモデル氏に、
小さな岩の上から数回ジャンプしてもらった。
ラフには無い現場ならではの写真も、嬉しいものである。
めでたく表1になった。

Hasselblad 150mm ネガ

7.18.2011

Ozwald BOATENG

勲章も授与されたイギリスのファッションデザイナーである。
確か2000年頃にサンエーとの契約で日本でブランドを展開していた時期だった。
テーラードなラインとユニークな色や素材を融合させたスーツは、とても面白かった。

雑誌BRUTUSの特集ページで彼のポートレートの撮影をさせていただいた。
スケジュール確認の電話で速攻「モノクロでやらせてもらってもいいですか?」と尋ねた。

テーラードを学んだ黒人デザイナーの手と顔のモノクロプリントがあれば、
必要十分であると、瞬間的に判断した。

おそらく今時であれば、デジタルで撮影したサムネイルを
「いちお、カラーのも入れといてください」
と言われるまま、なんとなくパソコン上でカラーもモノクロもシャッフルされて表示され、
セレクトされるところだろう。

もちろん確固とした意思(エゴ)表明として、
モノクロだけのセレクトしたデータを見せるのも大事だとは思うが、
「カラーも見せてください。。あ、あとアザも入れといてください」
と言われてしまうと、「やだ」とは言いながらも渡すことになってしまう。

この何でもかんでも軽い気持ちで見てしまうという作業が、
なんだか、最近、、少し嫌いである。


この時は、わざと顔と手の四つ切プリントを用意しただけだった。
手の外側の黒い肌と、上品になめされたような黒人の手の平のコントラストは、
間違いなくページのコンセプトとマッチすると思っていた。

(この頃、プリントで入稿するとありえないくらい埃ごと
スキャンされたまま紙面になることが時々あった。)

この時も、そんな埃だらけのプリントには見えたものの・・・
裏のページが透けて見えてはいたものの・・・
編集の企画と写真、デザインとが見事にはまった、今でもお気に入りの見開きとなった。

Hasselblad 100mm  チューブ付き トライX

7.15.2011

呂比須ワグナー

もう13年も前の撮影である。
雑誌Numberの「日本代表の秘密兵器」特集で、
6人の撮影を行ったときの一枚。

いきなり、日本に帰化したばかりの呂比須さんの口から
流暢な日本語で挨拶されてしまった。
いつも思うが、顔が完全に外人の方が、
普通の日本語を話されると、おもわず顔がほころんでしまう。

選手それぞれ、秘密兵器としての必殺の一枚を狙う指令を受けていた。
挨拶もそこそこに、ボールを蹴ってもらう事は可能かどうかお尋ねすると、
ぜんぜん乗る気で撮影に臨んでいただけそうだったので、
まよわずワイドズームをガシッと広角側に振り切って、
グランドにうつぶせになって、カメラぎりぎりにボールを蹴ってくれとお願いした。

「カメラ蹴らないで下さいね」というと、
おどけてカメラを蹴るふりをしながら、
「オッケー」と笑って、何度も力強くボールを蹴ってくれた。
カメラとボールと足が紙一重の迫力のある一枚を撮影することが出来た。

現在はブラジルのパウリスタFCで監督をなさっている呂比須ワグナーさんである。

Canon EOS1N 17~35ミリ ネガ

一昨日、女子ワールドカップで日本代表が決勝進出を決めた。
家に遊びに来てくれたこともある澤さんが活躍される試合を見逃すわけにはいかない。

素早いパス回し。
後半になってもまるで始まったばかりのようにボールに向かうタフな姿勢。
最終ラインからなのに、なぜかパスのように繋がるロングボール。

「苦しいときは、私の背中を見て・・・」
という澤さんの男でもなかなか言えない言葉は、
素晴らしいチーム力を生み出し、
日本女子サッカーはドイツのグランドで輝いていた。

「ぶっちゃけ日本の男子よりも、うまくねえか?」
「なんか、チームサッカーとしては女子のほうが一枚上手?」

時々、紛争を抱えている国が国際スポーツで活躍しているのを見ると
不思議な気持ちになっていたが、
現在、日本は外から見れば地震の大被害に加えて
放射能舞い散る国でもある。
世界中にとんでもない希望を与えることになる。

是非18日の決勝でアメリカを破って「歴史」を作って頂きたい!

日本でも日の丸を車からなびかせて、車のホーンが鳴り響くのが楽しみである。

フランスワールドカップ1998@フランクフルト
Leica M6 28ミリ トライX 

7.14.2011

金嬉老

月刊現代のグラビア「貌」で金嬉老さんを撮影するために、
2000年の暮れに釜山に向かった。

建物の入り口で厳重にセキュリティを受けて、
カメラがあちこちに配置されお上に監視されてはいたが、
ご自宅のマンションはとても贅沢で綺麗な建物だった。
部屋の壁には、支援者から送られた品々がきれいに並べられていた。

実は、金さんの笑顔を狙っていた。
70年の人生で50年もの間、牢獄で 暮らしてきた人が
どんな笑顔をされるのか、とても興味があった。

ファインダーを覗きながら少しシャッターを押したところで、
笑顔を撮りに来ました。。と告げると金さんは口元は笑ってくれた。
ぶっちゃけトークに切り替えて、笑顔を誘ったのだが、
口元に少し皺がよって、笑おうとしているが、
目が、まったく笑っていなかった。
修羅場をくぐり抜けてきた70歳の方が、
照れで笑う事が出来ないのとは、まったく違う状況だった。
取材時の2時間程しかお会いしていないので、
あまりいい加減なことは言えないが、
50年間のムショ暮らしが、笑顔を奪ったとするならば、
すこし恐ろしい気がした。

私の生まれた小倉の実家のすぐ近くに、
親達が近づくなと言っていた村のようなところがあって、
韓国や北朝鮮の人たちが住んでいるんだろうということは子供ながら感じていた。
こっそり、出かけていってはそこの子供達と泥遊びやパッチンをして遊んでいたが 、
どうして、そこに近づくなとみんなが言っていたのか?
歴史のいたずらなのか、いじめや差別意識が国レベルになってしまったものなのか。
実は、いまでもはっきりした理由がわからない。

金さんはその後、なんとまたもやもう一度服役。
昨年亡くなられて、御本人の希望で静岡に眠られているようである。

ちゃんと歩けないくらい足が悪いのに、
母親の仏壇の前では正座をして小さくなっていたのが、とても印象的だった。

合掌

Hasselblad 150mm トライX

7.07.2011

九州水めぐり

約16年前、デビューしたての頃、カードの会報誌のご紹介を頂いて
「Lasisa」という雑誌の取材で、湧き水を求めてレンタカーで九州を周った。

7年前の引越しの際に
「いつか、このページは役に立つ・・・」
となぜか気になってスキャンしておいた。

2011年、水道の蛇口から放射能が入った水が出るようになるなどと、
想像もできなかった時代になってしまった。

毎週、スーパーに水を買いに行くのに飽きてしまった方、
たまには、九州のお水でも・・・





CANON eos1N, FUJI GSW690Ⅱ型  ポジ

7.06.2011

Quentin Tarantino

ネットを見ていたら、タランティーノさんが、
パーティーで若い女性を自宅にお持ち帰り。。
その模様が女性のメールにより流出。。
自宅の撮影ブースで撮った写真もおまけつきらしい。。

「そりゃねえだろう、お嬢さん。。」
放射能舞い散る日本にまでこんな情報が伝わるようでは、
ま、おそらく御本人も笑うしかないかないだろう。。
こうして、書いてる時点で、また広まってしまうわけで、、
芸能人の有名税ほど、高いものはないかもしれない。


6.7年前、、BRUTUSの取材でタランティーノさんを撮影させていただいた。
映画がらみの、ホテルの部屋での入れ替わり立ち代りの、時間割取材だった。
どうしてもストロボを当てたモノクロ写真にしたかったので、
前入りの取材チームのお邪魔をしないように、
編集の斉藤さんと「時間がたらんてぃーの、、、」などとつまらぬことを言いながら
静かにセッティングをした。

ハリウッドの俳優さん(もちろん彼は監督さんでもあるが)は、
時々びっくりするほど俳優オーラを身にまとわないでわれわれの前に姿を現すことがある。
どこか、一流のファッションモデルが
あがり(最終的な写真)からは想像もつかないような
すっとぼけた雰囲気でスタジオに登場するのに似ている。

このときのタランティーノさんも、かなり太っていらしたこともあるが、
まったくもって、イタリアあたりの裏道を歩いているおじさんの風体だった。
ほんとは、そのまま、、ありのまま、、を捕らえるのも写真だとは思うが、
映画のPRも兼ねてということもあり、顔を狙って撮影したら、、
ちゃんとハリウッドスターになってしまった・・・

こんな経験があるせいで、NYやロスやローマなどでは、
見た目にごまかされないように、目を皿のようにしてデニーロさんを探してしまうのである。

Hasselblad 100ミリ トライX

7.05.2011

野中広務

1998年、月刊現代の「貌」グラビアの撮影で、野中官房長官の写真を撮りに行った。
小渕総理から土下座で官房長官を依頼され、就任したばかりだったと記憶している。

以前の古い議員会館の入り口で、
カメラとストロボとスタンドの簡単なセキュリティチェックを受けて、
ガラガラとバックを転がして、官房長官室にあっけなく入り込めた。

ほどなく野中さんは、登場した。
開口一番、
「よくそんな大荷物、持って入ってこれたな~」
実は、私自身も官房長官室にこんなに簡単に入れるとは意外だった。

野中さんは、テレビで拝見する気難しいイメージとは
まったくかけ離れたフランクな話し方をされる方だった。

野中さんの顔は思ったとおり私の大好物だった。
当時、政治家で一番撮りたかった方である。
とても日本人らしい、いい顔をされていると思う。
写真を見ていただければご理解いただけると思うが、
黒澤監督の映画に登場してほしいくらいの「男の顔」である。

部屋の壁には、アクリルの点灯式の議員の名札のライトボックスがあって、
たしか、部屋の奥にどんとおかれた金庫の話もした記憶がある。
「それは、大事な金庫だよ」と言われたと思う。
当時は、政治なんかどうでもよくて、官房機密費などまったく知らなかったが、
もし、今であれば金庫にがっつり頬杖でもついていただいて
ポートレートを頂きたいところである。

頂いた数十分の時間内に3カット4ページを撮らなければいけないので、
手を動かしながら頭半分で観察させて頂いた。
数多く政治家の方も撮影させていただいているが、
なんというか、、、やるときはやる迫力のようなものを
一番感じることが出来た日本の政治家だったかもしれない。

重要文化財ともおもえるような古い壁にバック用の布を貼る気にもなれず、
だからといって背景用にスタンドを立てる場所も時間も無さそうだったので、
編集の吉田さんに別珍の黒布を野中さんの後ろで、
手で持ち上げて頂いたまま撮影させていただいた。

多くのポートレートで私は極力シンプルにカメラに正対するスタイルを好んでいる。
それは、いろいろ変化を付けて撮影をした写真達も、
時間を経て熟成されると、シンプルなもののほうが
どんどん美味しく見えてくる経験からであるが、
このときは、会った人にしかわからない野中さんのエネルギーを
写し止めたい思いから、すこし動きのある感じを狙った。


近頃、なんとかビズとかで、ネクタイをしない政治家が増えている。
仕事に疲れた飲み屋の酔っ払いのおっちゃんにしか見えないということを
誰か、伝えてあげたほうがいいと思う。

環境大臣、防災大臣と兼任し、復興大臣に就任された方が、こんな感じらしい・・
松本復興相、宮城県の村井知事を叱責   
きちんと責任を持って仕事をして、やるときはやるパワーを見せてくれれば
政治家がすこしぐらい偉そうだって国民は、なんとも思わない。
いまの日本の政治家は、おそろしく重要なポジションにいると思う。
今、何をするか、何が出来るか、何を目指すか、
究極の日本の阿弥陀くじを進める立場にあると思う。
ほんとうの意味で日本の将来のための力を発揮して欲しいと強く願う。

7.02.2011

2011年

2011年も、もう7月になってしまった。

すごい半年だった・・・

ブログを始めた。

新しいカメラを買った。

母親が入院して手術をした。

愛犬ハニーが死んだ。

日本広告写真家協会などというものに入会した。

大地震があって、たくさんの方が亡くなってしまった。

原発から放射能が漏れ続けている。

中学の同窓生達を撮り始めて、古い友人たちと数多く出会った。


煙草の吸い過ぎか放射能で、早々にくたばらなければ、
おそらくは折り返し地点のあたりまで来てしまった・・・

生きること、仕事をすること、写真を撮ること、、
もしかしたら何かが変わってしまうほど、
大きな意味を持つ半年間だったような気もする。

間違いなく、忘れられない2011年の前半戦である。

旧い戦友
LEICA M4 ズミクロン50ミリ(約20年前撮影)